昭和50年09月06日 朝の御理解



 御理解 第62節
 「昔から、人もよかれわれもよかれ。人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 此頃はにわか先生が多くなったので金光教の信心で助かりにくくなったといわれとります。にわか先生ではやっぱりいけません。やっぱり一段一段剣道とか柔道なんかはね、有段者と申しますから一段一段信心の段を取らせて頂いてでなければ指導が出来る筈はありませんよね。それは成程、学院なら学院に誰でも一年行って参りますと、もうそれで教師の資格を頂くのです。
 如何に金光大神が働いて下さるというても、やはりその金光大神を自分の信心に頂いておらずして人を助ける、神信心をしてわが身の上におかげを受けて後に人を助けてやれと言う様な助けにならない。かというて、このところを自分が助からなければ人助けが出来んかというとそうでもない。人も良けれ、我も良けれ、人より我は尚良けれということは、自分だけが良ければ良いというのとは違うんです。
 その後に我身の上におかげを受けて、後に人を助けてやる。人を助けてやるいうならば、人を助けれる働きの出来れるおかげを頂くために人より我は尚良けれという訳です。だからこれは、利己主義と申しましょうか、自分さえ良ければ良いと言う事じゃない。自分が良くなる、そして人を助けてやると言う事。段々信心が分って参りますと、やはりにわか先生が出来る。自分自身が助からずして人が助かる話なんか出来る筈はない。
 昨日は壮年会で、そんな話が中心になりました。永瀬さんのお話がありました。とにかく仕事、職場に於いてでも、もう人の足元ばっかり見るとがおる。人の足元だけならよかばってん、その一寸したしくじりの様なものをもう、針小棒大にして、こうその悪口を言う。そして自分な言わずに人に言わせる。そして自分な涼しい顔をしとると、いうならば問題をいよいよ大きく問題にしていく人がある。こういう人はもう自分自身が助かってない証拠ですよね。
 それに対して、ではなかったけれども、喜代司さんが、こういう事をいってました。もう昔、椛目時代に親先生から頂いた言葉の中に、今にもそれを自分の心の中に頂き続けていることがありますと。人を見るより自分が見られる人になれと云う御理解を頂いた。人を見るより自分が見られる人になれと云うこと。もうこういう行き方になりますと、問題がなくなると。
 私は今日皆さんに聞いて頂きたい。人より我は尚良けれと言う様な、おかげを頂くというか助かるというか、わが身におかげを受けてと仰せられるところのおかげとは、そういう助かりだと思います。人を見る側に立つのではなくて、見られる側に何時も立っとけと。だからあれは金光様の信者じゃと見ておりますから、金光様の信心に、あすこは金光様の信心をさっしゃるばってんが、何処よりか商売人であると、高い品物もあんまり良くない。そして親切でもないと、例えば、いわれる様な事は出来ませんよね。
 金光様の信心を頂いておれば、何時も見られておるという、立場に立っておるのですから、何処よりも良い品を、しかも安く、しかも真心を込めてサービスをすると言う様な、何時も見られておるのですから、何時も見られておる側に立っておるのですから、とにかく人を見る暇がない。人の足元なんか見る暇がない。問題が問題にしていく暇がない。問題があっても、自分が何時も見られる側にあるのですから、なるほどこれでは良くないと言う事になる。
 そういう何時も見られておる側になる。そういう生き方を本当に身につけたらです。そういう助かりを自分自身頂いておったらです、しかもそれが、垢抜けしとる。一段と大きくなって來る。一段一段高められて行く。いうならば有段者の自覚がだんだん出来て來る。なるほど喜代司さんが人に伝える時には確信を持って伝えておりますね。人にも成程という感銘を与える。自分自身がそういう修行をしとるからです。しかもそれが心行になるというのです。
 皆さん今日から、見る側でなくて、何時も見られておる側に立たせて頂くという行き方。自分が先ず助からなければならない。でなければ人が助かる様な手だてというものは出来ない。結局にわかに先生にはなられんと言う様に、私共が一段一段、いうなら信心の有段者にならせて頂かなければ、云うなら教えてあげられる筈がない。結局は先ず自分自身が助かる、わが身の上におかげを受けてということは、自分の心が助かるということだ。自分のその心の助かりに現れて來るおかげ、心を洗うという。
 私は御神前に向かわせて貰うときに、口を濯いだり、手を洗ったりして御神前に向かわせて頂く。私共が何かをなす時に、何かを言うときに、御神前に向かう時のその心です、自分の心を洗う気持ちになりますと良い心行が出来ます。いよいよ自分が垢抜けして助かって行くことを自分に感ずる様になります。今こういう事をしようと思うが、先ず自分の心を洗うから。
 昨夜壮年部会が終りましたのが丁度十二時頃でした。そうでございましたから下から御祈念を終らせて貰って休ませて頂くお届をさして頂きました。丁度祈りの言葉の中にはいつもと変わらない祈りの言葉を心に念じながら御祈念を終らせて頂きました。そしたらね神様からね、心を洗わずに祈ったという意味の事を頂くのです。ははぁ本当に私は思いました。神様に特に御祈念をする前に心を洗わずに御祈念をしたって駄目です。
 それがやっぱり心の中に早く休みたいと言った様なものが心の中にそういう心で、もう心が捕らわれてしまってる。私が汗かきだもんですからもう、昨日はもう冷房を切ってありました。それでこう汗ばんでおるし、気持ちが悪いし一風呂浴びて、そして休ませて貰おうと、その一風呂浴びて休ませて頂く事ばかりを考えておりました。気持ちが悪いもんだから、只今壮年部会が済みました。
 只今から休ませて頂きますということを、たったそれだけの願いでありましても、心を洗わずに祈っておる、願っておるというのです。自分の心をね、先ずそれこそ手口をゆすぐ様に、手を清める様に御神前に向かう時には、先ず自分の心を清めておいて、改めておいて神様に向かわなければならない様に、何事にも真心になれと仰る様に、何をさせて頂くでも、なら一生懸命御用をさせて頂くにしましても、先日から末永先生が言っておりましたけれども、まあ一生懸命御用をさせて貰っておる。
 フッと自分にこうして御用さして貰っておるが、果して心行が伴っておるだろうかと思うというのです。 心行が伴うておるかと思う時に、既に心は清められたと同じ事です。そこに、ああ自分の心行が伴うていなかったというところに、詫びるとかね、また改めるとかという、ことになるのです。それが心行であると同時に心を洗う事になるのです。今自分がこうやってお話をしておるが、果して自分の内容の事が内容以上のことを言うておることはないか。
 いうなら、口に真を語りつつ心に真のないことと言われるが。果して自分が言っていることの中に真があるかと否かと思う事が心を洗うということですね。洗うことの出来てないならば、先ずそこに言おうとすることは止めて、行うとすることが、一寸まって心を、心行が伴うた行の上に心を洗ってからの表現にならなければいけんと思います。人よりは我は尚良けれということは、自分が良うなければいけないというと、わが身の上におかげを受けておかねばということ。
 我が身の上におかげを受けるということは、今申します様に喜代司さんのそれじゃないですけど、何時も見る側じゃなくて見られる側に立っているという行き方ということ。又は行うことに依って何時も心を洗うてからかかるということ。必ずしも御神前に向かって御祈念をしよるから清まっておることではないということをです、たった五分か十分の御祈念の中に申し上げることは申し上げた。祈ることだけは祈った。
 そして立ち上がろうとしたら、今の祈り願いというものは心を洗わずに祈っているからいけないと改めて落ち着けて、本当にそうだとお詫びをする心が、もう心を洗った事になる。そして又ゆっくり御祈念をさして頂くことになる。そうでなければ神様は受けて下さらないのです。なら、そういう事柄がです、日常生活の上にも成る事にも信心になれということはそういうことだと思うんです。
 いよいよ心はもう一遍洗うたからもう洗わんで良かちゅうことではないということ。祈るたんびんに洗わにゃいけん。御神前に出る時にはたんびんに口をすすぐ様なもんだ。そういう心がけそのものが心行なんだ。そこにはです、自分が一段一段信心が進んで行っておる実感があるでしょう。そういう助かりを求めての信心。私は今も申します様に本気で取り組んで行かせて頂くということが信心の稽古だと思うんです。
 どうぞ今日は問題を問題にして行く様な心掛けはいけません。これではその人はおかげを受けても心が、何時までたっても助かりません。心が助からなければ本当のいうならば人を助ける事は出来ないと思う。自分が助かって後に人を助けてやれれるおかげを頂いたらそれが私は御神徳になると思うです。いうならば本当の助けるとか助かるということは一人を助ければ一人の神といわれるのはそういう意味だと思うです。素晴らしい事です。一人を助けることは一人の神だと、二人を助ければ二人の神だというのです。
 それは自分が助かって助けるという生き方。だから、結局はやっぱりお徳の世界のことです。いよいよ自分が助からなければならない。というてそういう助かりを受けなければ人に話していくことが出来ないかというとそうでもない。助かるというその過程を大事にしなければならない。例えば、病気のおかげを頂いて信心が分からんなりにお取次を頂いておかげを頂いたら。それをまた人に伝えなければおられんようなものが生まれてくる。そうすると次の人が助かる。
 それは只病気が治ったというおかげに過ぎない。勿論そういうところから、お互い導かれ、導いておるのですけれども、本当の助かりということは、一人を助ければ自分が一人の神となる様な助かり方を私は今日は聞いて頂いたのでございます。一人を助ければ一人の神になるということは徳を受けたということになります。一段と信心が進んだということになります。
 信心のいわば有段者にならせて頂く願いをもって参りますとです、これから習って行こうという人達がです、いうならば、教導、導きが出来ることになります。自分が段を持たずにおいて人に教えることが出来ない様な道理です。ために、一つ人を見るのではなくて、自分が見られておる側に立つこと。自分が言おうとすること、行おうとする事の中に果して心行が伴うておるか、果して心は洗うておるかということを確かめながら生活をさして貰う、信心生活、信心の稽古とはそういう事だと思います。
   どうぞ。